This essay was awarded silver medal in the United Nations Japan SDGs competition, when I was in 8th grade.
第60回「国際理解、国際協力のための全国中学生作文コンテスト」東京都大会、銀賞受賞
高井杏菜 August 31, 2020
私は生まれてから10才まで、アメリカのニューヨークに住んでいた。家の近所、マンハッタンのエンパイアステートビル近くのストリートには、よくホームレスの人達がいて、ダンボールをしいて、その上に犬と座り、コインを入れたコップをガチャガチャと鳴らして、歩いている人にお金を求めていた。私にとって、この姿を見るのがとても衝撃的だった。毎朝、私はこのような光景をみて、学校に通っていた。「なぜこのような生活をしている人が世の中にいるのだろう。」と、毎日考えていた。日本へ帰国してからも、ホームレスや貧困、飢餓に苦しむ人々のことを考える機会が増えた。
1つ目のきっかけは、東京のインターナショナルスクールで、日本での貧困問題について取り組み、プレゼンをしたことだ。「スープの会」というボランティア組織に参加して、靴下やお菓子などを持参し、味噌汁と一緒に皆んなで新宿のホームレスの人たちに配布した。またインタビューを通して、いろいろな話を聞くことができた。子供の頃、どんな生活をしていたのかと聞くと、ほとんどは私のように普通の生活をしていたことを知り、驚いた。病気で仕事が出来なくなくなってしまった人、会社と上手くいかなくなってしまった人もいた。最初は、ホームレスと話すのは少し怖いと思っていたが、話をすると、皆んなとても優しい人達だった。
私はこの活動をするまで、日本ではホームレスの人達を見た事がなかったので、日本に貧しい人は存在しないと思い込んでいた。けれども、この活動を通し、ニューヨークと違って公の場所にいないだけで、日本にも貧しい人は存在する事を知り、世界の貧しい人のために何か役に立ちたいと考えるようになった。以来、少しでも力になりたいとの思いから、駅で「ビッグイシュー」という雑誌の販売をしている人を見かけると、購入するように心がけている。それは、販売しているホームレスの人の収入になるからだ。このようなほんの少しの行動でも、世界は変わると信じている。
2つ目のきっかけは、学校の「TISカンボジア校教育開発プログラム」に選ばれ、カンボジアで活動をし、また日常生活を経験した。カンボジアの学校では、2日間に渡り、8歳〜16歳くらいの子供達に英語やゲームなどを教えた。鯉のぼりを説明して、一緒に作ったり、サッカーをしたりして、楽しい時間を過ごした。生徒達は、通学のため8歳くらいでも自分で電動バイクに乗って来ていたことに驚いた。また友達と先生でトゥクトゥクに乗っていた時、お金をもとめて貧しい女性が細い両手を差し出してきたという、衝撃的な出来事があった。最初は少し怖くなったが、これが現実なのだと思い、貧困と飢餓問題を経験している人々の力になりたい気持ちが大きくなっていった。
このような経験から、私は何とか2045年には貧困と、飢餓をゼロな世界にしたい。そして現在、A-GOALというボランティア組織に参加し、寄付をしたり、また自分に何が出来るかを探している。
World Food Programmeのサイトを読んでいた時、こんなことが書かれていた:「すべての人が食べるのに十分な食料が生産されている一方で、8億2100万人(世界人口の9人に1人)がいまだに毎晩空腹を抱えたまま眠りについています。」この文章を読み、再び心を打たれた。この人々のために何かをやらなければ、何も罪もない人が亡くなってしまうのだ。私はこのような生活をしている人々を助けたいため、将来はニューヨークに戻り、国連で働きたい。貧困と飢餓で苦労している人々、教育を経験できない人々、地球温暖化の影響で沈んでしまう国々に住んでいる人々、世界で大きな問題になっている海洋汚染など、人類の困難を救いたい。どんな国でも、人々がつながれば、地球は一つになる、と私は信じている。2045年、皆んなが笑顔になれるような世界にしたい。